• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

私は1969年3月4~10日に大阪・中之島の研修施設で行われたF損害保険会社の新入社員研修に、大きなカメラバッグと三脚を担いで参加した。せっかく交通費と日当付きで大阪まで行くのだ。ついでにちょっと足を延ばしてC62やC59という大型蒸気機関車が活躍していた呉線と、D51三重連で有名になりつつあった布原へ行ってみようと思ったのだ。4月1日からの勤務で人事課に配属されたのは「要注意新人」と見做されたからだったのであろうか。呉線は改めて書くことにして今日は布原を思い出してみたい。
布原は1987年4月のJR化以前は信号場で仮乗降場として客扱いをしていた。今は無人駅だが当時は駅舎(信号扱い所)があり職員もいた。岡山と米子を結ぶ陰陽連絡・伯備線の中間、備中神代と新見の間にある。芸備線(広島~備中神代)の列車も新見まで乗り入れていて、布原の路線名は伯備線、運行上は芸備線の扱いで、駅に昇格した今は芸備線の普通列車数本だけが停車する。1日の乗客数平均1名(2016年度)とはいえ廃止の話は無いようだ。今流行りの秘境駅の一つと言われている。
私は呉線の撮影後3月12日の急行「たいしゃく2号」で広島から新見に向かった。三次から2両だけになった列車は雪深い備後落合を経て21時前に新見に着いた。すぐに駅前旅館に素泊まりし翌朝布原に向かった。朝食をどうしたのかは記憶も記録もない。
布原のD51三重連というのは、伯備線の足立で採掘された石灰石を姫路の新日鉄広畑工場へ輸送する貨物列車を3両のD51が牽くというもので定期列車の三重連は珍しいものだった。当時鉄道ファン誌に発表されたこともあって撮影に訪れるファンが増えてはいたが、それでもまだ1日数名といったところだった。
布原信号場の数百メートル新見寄りに鉄橋があり、そこが第一の撮影ポイントになっていた。機関士たちも発車してすぐのところなので、ファンのために多目に蒸気と煙を出してサービスしたとのことだった。もともとこの列車の先頭のD51は回送で煙もはかず押されていればよかったらしい。
私が撮影した(①)のは山の斜面を少し無理して登った場所からだった。ところが、である。その3年後、1972年3月のダイヤ改正で無煙化される直前には、その山の斜面が削られ小道ができ、杭が打たれお立ち台を作り入場料を取る者まで現れ、多い日には300人を超す撮影者が集まったそうだ。機関士たちは多めに煙を出すサービスをやめたとの記事もあった。そんな騒ぎになるほど、ファンには良い場所だった。
そこからさらに新見寄りにはのどかな風景(②)が広がっていた。この列車、D51が1両でひいているようだが後部にもう1両、後押しの機関車がついている。煙だけ写っているのがお分かりいただけるだろうか。


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