もうすぐ大晦日、そして新年を迎える。かつてこの時期千葉の鉄道は成田山初詣の列車でニニにぎわった。大みそかには成田に向かう各地から終夜運転で臨時列車が運行された。中には「勝浦⇒東金⇒八街⇒成田」という列車もあった。最近は同じ終夜運転でも、九十九里や銚子に向けて「初日の出号」などが運転されている。
千葉から成田に向かうのは、佐倉までが総武本線、佐倉~成田は成田線となっていて、私が学生の頃は電化されていなかった。初詣成田号などの臨時列車にはキハ17系DCやC57・C58の牽く客車列車が活躍していた。成田詣での団体臨時列車の多くは千葉まで、EF58が牽いてきていた。ところで、キハ17などの座席は固定されていなかったので、初詣に向かった私の祖母が、網棚に荷物を乗せようと座席に乗ったところ、これが外れて転落。足を骨折し「老女列車内で骨折」との見出しで新聞に載ったことがある。入院の手配から治療費の支払いまでお世話になった国鉄千葉鉄道管理局とはこんなことでもご縁ができた。その千葉~成田が電化されたのは成田山新勝寺の新本堂落慶の日、1968年3月28日のことである。(①A記念乗車券参照)。この日から2か月間は成田山の新本堂の落慶記念御開帳となり、開業時から電化していた京成電鉄でも大開帳記念乗車券①Bが発売された。国鉄千葉駅前という駅は現在の京成千葉駅である。
電化された千葉~成田を走ったのは、旧国72系(いわゆるロクサン)②だった。電車の前頭の行先板は同じ千葉行きでも成田線はかつての総武線とはデザインが異なっていた③。畑では電車に目もくれず黙々と野良仕事に励む人がいた④。現在この農地は住宅街になっている。
御開帳の期間、臨時快速電車が新宿~成田に平日2.5往復、休日6往復運転された。途中停車駅は、秋葉原、両国、船橋、津田沼、千葉、佐倉であった。車両は70系4連×2の8両編成で、その快速成田号の写真を⑤(酒々井~成田)、⑥(佐倉~酒々井)の2枚ご紹介しよう。
電化開業から1年半。1969年10月1日から1972年7月14日(東京地下駅乗り入れの総武快速が走る前日)まで、101系電車(カナリア)10両編成による快速電車が中野~成田に1日6~8往復運転されていたのをご記憶の方もおいでかと思う。この快速は中野~お茶の水の各駅と秋葉原、両国、新小岩、市川、船橋、津田沼、千葉、四街道、佐倉に停車した。追い抜きのできる駅の少なさから速達性には問題があった。101系の入線に際しては試運転(⑦東千葉~都賀)が行われた。快速運行が開始されるとヘッドマーク付きの101系10両編成は結構見応えがあった。⑧は千葉~東千葉で撮った成田行きだが、右側通行のように見える。なぜか?ご想像ください。
そういえばこの電化開業の日、それまでの都賀仮乗降場(旧・都賀信号所)が駅に昇格した。私は千葉に不在だったが、私のわがままを聞き入れて、今は札幌在住の平井清高君が入場券のナンバーワンを入手してくれた⑨。汚れが目立ち恥ずかしいが、心からの感謝を込めて掲載しておこう。