形式C55という蒸気機関車(蒸機)は、C51からC54~C55~C57とつながるライトパシフィックの系譜の中で、C51やC54のスポーク動輪と、C57の砂箱と蒸機溜め一体型ドームを持つ、過渡的な容姿を備え、計57両が製造された。C51の289両、C57の201両に比べもともと少数で、私が鉄道の撮影行を始めた1960年代半ばには北海道や九州にしかいなかった。
最初の出合いは鉄道好きの友人と3人で出かけた1965年7月の北海道。DC特急はつかり⇒青函連絡船1便十和田丸で函館に着いた私は、接続の特急「おおぞら」や急行「ライラック」ではなく、不定期急行「石狩」を選んだ。駅弁とお茶を買いスハシ38という2等座席と食堂車の合造車を見つけて乗り込んだ。その先頭ではC5525が蒸気を上げていた。C55では2次型といわれる元流線形を改造した機関車で、幸運に感激しつつ東室蘭まで、スハシの食堂でミルクを飲んだりしながら、のんびりと汽車旅を楽しんだ。そして東室蘭。駅周辺で数列車を撮影後に乗った岩見沢行きの先頭はなんとC551。この時はじっくりC55を撮ることなく過ぎてしまった。旅の最後に札幌からのC62が牽く準急「たるまえ」を大沼で降り、夏の間、不定期「石狩」の運用に専従していたC5525が2週間前と同じ大沼湖畔を行く姿を脳裏に焼き付けた。
さて、それから2年。1967年夏の北海道はこのコラムにも何回か書いた通り一人旅だった。炭鉱の蒸機とC55が目的で、何日目かに岩見沢機関区でC551に再会できた①。C551は1935年3月29日に川崎車両兵庫工場(川車兵庫)の製造番号1538として落成。小樽築港機関庫(のちに機関区)に配属され、旭川を経て1958年9月21日に室蘭機関区に転属。その後1971年11月に京都梅小路機関区(現・京都鉄道博物館)に「保存予定車」として移るまで、最初から最後まで北海道で現役生活を送った。
さらにその数日後、留萌本線恵比島(留萌鉄道の分岐駅)で、時刻表には載っていなかった、夏の海水浴臨時列車を牽くC5543に出合えた②。その乗客には乗車記念券③が配られたことを知り、後日入手することができた③。C5543はC55の最終グループ3次型に属し、1937年に川車兵庫で製造され初めは名古屋や浜松で活躍ののち、1940年9月に小樽にわたり、1955年6月からは旭川機関区で1970年3月23日に廃車されるまで、北の大地で活躍した。
一方、九州のC55は北九州での出合いが大半で、吉都線など南九州には縁がなかった。
1968年春の筑豊本線では、D50やD60とともに、客レを牽くC55の姿が目立った。④は筑前植木付近を行くC553である。九州のC55はほとんどが除煙板(デフレクター)の下部を切り取った門デフ(いくつかのタイプがある)に改装されていた。C553は先述のC551と同じ川車兵庫で1日遅れの同年3月30日の生まれ。宇都宮や尾久機関区に配属され東北本線などで活躍。1958年に宮崎に移り、その2年後、鹿児島工場でKG2型のデフに換装された。吉都線などで働いたのち、1967年10月19日に若松に転じ、1970年1月に廃車された。私が会ったのはこの若松区時代である。写真⑤は筑前山家付近を走るC5511。こちらのデフは上部が可動式でやや大きめなのがお分かりいただけるだろうか。⑥は冷水峠を登る姿。
二次型のC5525などは次の機会に。その2に続く。