1975年5月17日、私はその前日深夜23時45分新宿発-長野行き鈍行で、3時17分に、早朝といってもまだ真っ暗な甲府駅に降り立った。身延線にしかいない旧型国電と古い電気機関車ED17を撮るためである。どうも小雨が降っているようだ。待合室で小休止ののち、5時5分発の初電富士行の客となった。30分足らずで甲斐上野。途中渡った笛吹川にまず行ってみることにした。そこで撮ったのが写真①。クハ68を先頭にクモハ14やクハ47、クモハユニ44の4連。雨も少しやんで気を取り直したところで富士からの準急白糸号がやってきた②。甲府で折り返し急行富士川号となるのだが、湘南電車といわれた80系の最新型300番台が使われていた。(電動車モハ80は一部低屋根化され800番台⇒後述)
さて写真③甲府行きの先頭に立つのは元横須賀線のモハ32を低屋根化改造したクモハ14の800番台である。身延線のトンネルの断面は狭く、つまり高さがないので電動車のパンタグラフが閊(つか)えてしまう。そこでクモハ14、39両のうち身延線に転属した24両が1956年に屋根全体を低く改造されたのである。800番台というのはそうした改造を受けた車両に付される番号である。
写真④はクモハユニ44803だが、こちらは低屋根化改造が1962年なので、屋根全体ではなくパンタグラフの部分だけが低く改造されている。クモハユニ44の800番台は4両あるうち800~802の3両は屋根全体が低屋根なのに対し、改造時期が遅かった003だけが部分的低屋根なのである。しかもパンタグラフの位置が1位側から2位側(簡単に言うと前から後ろ)に移され、運転台上部に元のパンタグラフ台の跡が残っているのがわかる。珍車であり、これが来たのは運がよかったと思い、雨を恨むのをやめた。
いよいよED17である。小雨に煙る中、葡萄畑を背にローカル貨物を牽いてやってきた⑤。あの頃の貨物列車といえば普通はこんな感じで、無蓋車あり、タンク車あり、有蓋車ありと、見ていても楽しいものだった。前方からトム・トラ・トラ・ワム・ワラ・タキ・タキ・ワ・ワム・ワラ・ワフ。このED17は番号が判然としないが、ED17 一族の中で17両と一番多い旧ED50である。
ED17は1930~1950年に改造して一形式にまとめられた元ED13,ED50,ED51,ED52からなるイングリッシュ・エレクトリック社製造の電気機関車で、側面のごつい通気孔(モーターの熱を逃がす)が特徴である。
ED17も変わり種と出合うことができた。⑥は富士に向かう貨物列車を牽くED1724である。元ED511で側面の通気孔が他のED17より1段多く4段あり、前面のドアが中央より向かって左にずれている。デッキもある。帰途富士駅で再会した時の写真が⑦。元ED51は3両しかなくこの時点ではこの24号機だけが健在だった。
最後の写真⑧は鰍沢口駅で私の乗った富士行各停電車と交換する甲府行き貨物列車の先頭に立つED1720。機関助士がタブレット(通票)を手に持っている。貨物列車はこの駅を通過していった。このED1720は元ED52の5号機で、車体形状は元ED50の一般的なED17と変わらないが、この形式だけ機械部分の製造がノース・ブリティッシュ社でそのため元の形式が異なっている。
写真⑥⑦のED1724と⑧のED1720には共通の経歴がある。この2両は輸入当初、東海道本線の旅客列車を担当する東京機関区に配属され東京駅をさっそうと出発する旅客列車を牽いたのだ。それから半世紀ののち、身延線の貨物列車牽引で余生を共にした、その感慨や如何に。