以前のコラムにも何回か書いたが、1967年7月に蒸気機関車(蒸機)を追って北海道に2度目の撮影旅をした。
その旅で出合ったキューロク(9600型式蒸機・クンロクとも呼ばれた)の内の3両が、特色のある機関車として気になっていた。今日はその3機を紹介しよう。
写真①はおなじみの、といってもだいぶ古い話なのでご記憶でない方もおられるかもしれない。朝の連続テレビ小説第7話「旅路」(「おしん」に次ぐ高視聴率)で大活躍した「9633」である。9600型式の34号機。1914年11月に川崎造船兵庫工場のNo.142として誕生した。直江津や松本で働いた後、1941年以来小樽築港機関区(倶知安支区)に配属され、1972年9月に鉄道100年記念事業で開館した「京都梅小路蒸気機関車館」での保存蒸機として小樽を去るまで彼の地で働き続けた。
私が出合ったのはその小樽築港機関区だった。何も知らずに撮影許可を事前に得て1967年7月13日に機関区を訪ねたら、何とその次の日が「小樽築港機関区開基40年祭」とかで機関区を一般に公開し記念品を配る、明日も来ないかと言われたが日程に余裕がなく、その記念品をいただいて撮影開始となった。最初に案内されたのがターンテーブル上で翌日のためにきれいに磨かれた直後の9633だったのである。「旅路」では、何枚かのナンバープレートを付け替えて、1台何役かをこなした。ちょうど同年4月から1年間の放送中で、同区のC62を超える人気の蒸機だった。放送初日のシーンで長い貨物列車を牽いて、函館本線塩谷駅を蘭島駅に向けて力強く発車して行った。それを見送る2人の子ども。あのシーン。ご記憶の方がおられれば思い出して語り合いたいものだ。
話は変わって写真②。室蘭本線伊達紋別駅に胆振線(いぶりせん)経由で倶知安(くっちゃん)から貨物列車を牽いて到着した19640号機。夕刻の弱い日差しで流し撮りになった。胆振線のキューロクが1966年3月ごろから除煙板(デフレクター)のステーに装備した二つ目玉(前照灯が前部の両脇にある)は、線内の急カーブに対応するための策で、ここの特色になっていた。一日の撮影を終え、駅のホームで、貨物列車のダイヤを確認もせず、ボーっとしていたところに現れた19640は、私が撮影した唯一の胆振線装備のキューロクとなった。19640は1917年12月に川崎造船所兵庫工場でその製番330として誕生。糸魚川(いといがわ)や富山を経て1941年に①の9633と同じ小樽築港機関区の倶知安支区に転属。機関区に昇格した倶知安機関区で胆振線を舞台に活躍し、1971年10月に名寄に移り1975年6月25日にそこで廃車(解体)となった。ボイラー回りがすっきりとした機関車だった。
最後の③は三菱石炭鉱業大夕張鉄道の「No.7」。晴天の国鉄夕張線清水沢駅構内で撮った黒光りした晴れ姿だ。大夕張といえば私が最初に訪ねたのはこの2年前。その時は炭山のある終点まで訪ねた。余談だが、さらにその5年前、1960~61年のポリオ大流行の際、その発端の一つだった炭住街を訪ねた札幌医大の専門医が、帰途、「列車内まで母親たちが押しかけ『先生何とかしてくれ』『助けてくれ』と叫んだ」、と記録にあるのがこの大夕張鉄道だ。日本でのポリオは1961年夏、1,000万人分の生ワクチンをソ連とカナダから輸入し6歳未満(流行地では9歳未満)の子どもたち全員に一斉投与したことで終息したとされる。
さて、「No.7」とは何者か。ナンバープレートをよく見ると「型式9600」とある。元国鉄のキューロクだ。運転台の下部をよく見るとボイラー脇のランボードからの線がSカーブを描いている。そう、初期型キューロク18両の内の1台だ。当時大夕張鉄道から頂いた図面によれば川崎造船所兵庫工場製で1914年1月竣工・旧国鉄9613となっている。山北機関区(御殿場線)から福井、岩見沢と転じ、1955年6月滝川で廃車。同年11月に三菱石炭鉱業に払い下げられ同社芦別鉄道を経て、1962年12月に大夕張へやってきて「No.7」を名乗った。1973年10月に廃車。現在は江別市の個人所有(非公開)となっている。
かつて美唄鉄道(びばいてつどう)のコラムに書いた「美唄7」は、1971年に大夕張に転じ「No.8」を名乗った。旧国鉄9616だからすぐ下の弟と言ってよい。この兄弟蒸機は老後の2年間、ここで石炭を運び共に活躍したのだった。