1975年12月14日の室蘭本線の下り225列車が、国鉄最後の蒸気機関車牽引旅客列車になる、との新聞記事を見て、すぐに13日の朝イチのJALと東室蘭のビジネスホテルを予約した。
12月13日、JAL51便は千歳空港除雪のため1時間半遅れで羽田を飛び立った。北見の秋葉裕嗣さん(南米の蒸機写真で知る人ぞ知る・故人)が苫小牧駅で待ってくださるとのことだったが、携帯電話などない時代でやきもきしながら空港から苫小牧へタクシーを飛ばした。彼は1日付き合ってくれたが、翌日の最終本番は都合が悪く、その夜北見へ帰らねばならないという。彼のことだから、さよなら列車のあの喧騒を嫌ったのかもしれない。
白老まで行ってタクシーを半日キープ。社台ではギースル煙突で有名なD51241の引く長い石炭列車(5725列車・ヤマへ帰る空セキ)の発車(写真①)が今でも脳裏に焼き付いている。遠浅~沼ノ端で明日に備えて室蘭に向かうC57135の客レ228(写真②)をねらっていたら次位にDD51を従えてやってきた。
いよいよ14日朝の室蘭駅。まずホームの先端に向かった。何としても出発のテープカットを撮影し、その列車に乗りたい。しかしこの混雑ではダメだ。225列車発車前のワンカット(写真③)、発車アナウンスの間に何とか5号車のデッキに潜り込んだ。溢れんばかりの人。中に押し込まれてはいけない。東室蘭で先頭切って飛び出すのだ。いつもの4両編成がこの日は8両に増結されてしかも超々満員。C57の能力限界いっぱいのスタートは空転の連続だった。
東室蘭、5分停車。私は降車客に乗車記念券(写真④)を渡すために待ち構えていた駅員からその1枚を受け取るとすぐに、改札出口へ走った。駅前に2台いたタクシーの1台に交渉。「あの列車をできるだけ追いかけてほしい」。しかし雪が降っている。うっかりすると雪のベールで何も見えなくなる。「踏切、それもあまり車の通らない周囲の開けた踏切に行って」「・・・!?」。案の定吹雪いてきた。鷲別を過ぎた。C57は速い。「この辺で」「踏切がある」「あそこだ」。降りて愛機ローライ2.8Fを構える。わずか数秒。眼前を黒い塊が雪煙とともに走り去った。(写真⑤)
次駅の停車中になんとか追い越せないか、の願いは雪道に阻まれてあきらめざるを得なかった。「登別駅前で降ろして」。煙の臭いがわずかに残るホームに立った。急行ちとせ3号を待った。これに乗れば白老で追い抜いて苫小牧で待ち構えることができる。白老停車。左手の満員のドアの窓越しに待避する225列車が見えた。キハ56が静かに長めの警笛を鳴らしてC57135の脇を先行する。
苫小牧はさっきの吹雪がうそのように快晴だった。やがて35分遅れで225列車到着。漆黒に光り輝くC57135(写真⑥)を私は停車位置ピタリの場所で迎えた。数コマ撮るやすぐホームに上り先頭車両に。超満員で到着したが、8分停車の間に撮影しようとかなりの人が車外へ出ていた。座席は無理だったが、1号車(オハフ6210)の前から2つ目の窓のあたりの位置を確保することができた。栗山~栗丘では煙突の煙がたなびきながら雪原に動く影絵を描いていた。所々で雑木林も背景にしながら、あれは忘れられない光景である。
イワミザワー、イワミザワーとホームのスピーカーが告げる中、74分遅れの列車は役目を終えようとしていた。降りてすぐ、人波にもまれながら、先頭のさよなら式典の場所へ向かった。乗務員への花束贈呈、国鉄北海道総局運転部長の挨拶(写真⑦)、次々と撮影するうち蛍の光が流れ、C57135は単機でねぐらへ向かおうとしていた。私は我に返り機関車のそばに寄り、そっとなでるように送った。
(鉄道文学第38号に掲載した拙稿「あれから40年 室蘭本線225列車」からの抜粋)