• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

「木曽路はすべて山の中」といえば島崎藤村の小説『夜明け前』の冒頭の一節だが、私の鉄道撮影行の場合は木曽路を列車で通るのが「真夜中」で「木曽路はいつも夢の中」だった。長野から名古屋まで準急「おんたけ」に乗ったときも、中津川に北恵那電鉄を準急「きそ」で訪ねた時も、そして同じく「きそ」で上松に未明に着いた時もそうだった。ただ1回だけ夜が明けてから訪ねたことがある。1971年5月の木曽路である。
中央本線(西線)のD51がそろそろなくなるようだ、との情報で一度は撮っておきたいと思って出かけたのである。当時D51(デコイチ)は「蒸気機関車の代名詞」のような存在で、1次型から戦時タイプまで総計1161両が製造され、全国どこにでもいて、特に珍しいわけではなく、常磐線にC62を撮りに行ったときなどは、C62のほかC60やC61が来れば撮るが、先頭がD51だとわかるとシャッターを切らないこともあったほどである。今思えば贅沢な話で、D51には失礼をしていたのかもしれない。
1976年の蒸気機関車全廃に向けて、各地で「さよなら蒸気機関車」フィーバーが起こり始めた頃であった。

まず上松の「寝覚の床」に向かった。稲沢(名古屋)発の貨物列車が寝覚の床を左に見て、上り勾配を元気良く走ってきた①。煙で太陽の光がさえぎられるほどだったが、力強い走りに感動したものだ。先頭のD51849は1943年9月11日、国鉄浜松工機部(のち浜松工場)で完成、稲沢機関区に配属され、米原までの東海道本線で戦時貨物輸送に活躍、戦後は大半を中央本線(西線)南部(名古屋~中津川)で働き、1970年10月1日に長野工場式の集煙装置が付けられて中津川機関区に転属。その半年余り後の姿がこの写真。調子の良い機関車だったらしく、翌1972年5月13日の中央西線さよなら蒸機旅客列車(中津川~塩尻)を牽引し、その翌日第一種休車指定。6月26日付けで廃車された、中央西線のスター機関車だった。これらのことは最近このコラムを書くために調べて分かったことで、私より3歳年上のあの機関車も最後は幸せな生涯だったのだな、と何となく感じ入った次第。今は豊田市の平坂芝の上公園で静態保存展示されているようだ(豊田市ホームページ)。

もう1枚②。重連のD51はよく見ると何も牽いていない。白樺や新緑の中を行く列車は機関車の回送だった。でもパッと見は、後ろに貨車か客車がつながっているような気がしないでもない。場所は奈良井と木曽平沢の間の奈良井川鉄橋。実はこの写真、札幌在住の友人平井清高君の鉄道写真集第二冊(完結編)に1ページを割いて「お手本として見ていた先輩の写真」として掲載されている拙作5枚のうちの1枚。撮影場所がどこだったか判然としなかったが、そこに書いてあった。彼は2冊では完結せず、全5巻に変更して現在第4巻を製作中である。サボや愛称板などの鉄道部品から切符類、駅弁包装紙、お茶土瓶など、あらゆるコレクションを掲載している。私も、と思っていたが二番煎じになりそうなのでやめて、当分はこのコラムを続けよう。


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