1964年の夏、高校3年生だった私は、もうすぐなくなるといわれていた大正の名機C51とD50にどうしても会いたくて、本来なら寸暇を惜しんで受験勉強をする時期に、学校と予備校の夏期講習直前2泊(夜行)2日の旅に出た。夜行列車で朝帰りの3日目は、夏期講習へ直行した。
まず上野から信越本線で長野へ。その前年のアプト廃止で急行「志賀」は165系電車になっていた。事前に国鉄千葉鉄道管理局文書課広報係を通じて見学許可を取っておいた長野機関区へ直行した。
D50が目に入った。363号機だ①②。山線用で長野工場タイプの集煙装置が付いており、化粧煙突は見えないが山男らしい風貌だった。以前に軽井沢で見たD50379③④と同様重油併燃装置も付いていた。
まず事務所で竹山首席助役に挨拶。「実は録音のためD50の運転台(キャブ)に乗せていただけないか」・・・私はカメラのほかに中古のリール式テレコ(カセットなどない時代だった)を担いで歩いていた。「録音」という目的に竹山氏はすぐに長野鉄道管理局の運転部に連絡してくださった。急な話なので正式な添乗許可章は出せないが、機関区の管理職全員で責任を持つなら、という条件で了解を取り付けてくださった。機関区長はその日不在だったので、竹山氏が「何かあったら私が全責任をとる」と宣言されて乗務員の皆さんにも伝えてくださった。今思い出しても涙があふれ出るような対応をしてくださった。竹山氏とはその後も彼が上諏訪機関区長を最後に退職されるまでしばらくの間、お付き合いさせていただいた。
その約1時間後の長野発松本行きの貨物列車の前補機がD50360とのことだった。「エッ!重連?」、なら写真を撮りたい、などとわがままを言ってはいけない。D50のキャブに乗れるなんて、高校生の私には天と地がひっくり返ったようなものだ。本務機は次位のD51なので、機関士と機関助士の喚呼応答は録音できないと言われた。ホームの端で待っていると列車が入ってきた。緊張して運転台へ。D50の運転台はD51などよりも広く私が乗っても十分なゆとりがあった。助士席に座れと言われた。いよいよ出発。本務機D51の汽笛が鳴った。機関士が右足元のペダルを思い切り踏めと言う。思い切って踏んだ。「ヴォーッ」えっそうなの?汽笛はキャブ上方のひもを引いて鳴らすものだと思っていた。カマによって改造されたりしているらしい。その瞬間「よしっ」と機関士が加減弁を引いた。いい具合に重連の列車は走りだした。助士は石炭をくべ続けた。
川中島を渡り篠ノ井線に入ると姥捨(うばすて)の先「冠着(かむりき)トンネル」までは上り勾配の連続だ。本務機から汽笛の合図があると「ペダルを踏め」と目で促され、私も調子に乗ってきた。2台の乗務員が合意の上で私に汽笛吹鳴体験をさせてくださったのだろう。トンネルでは登り勾配なので煙がものすごい。本務機は2台分の煙でもっとすごいぞと言われた。機関士たちは濡れタオルを顔に巻いていた。夏の暑い日だったが、とにかくD50のキャブにいるというだけで私の心は尋常ではなかった。松本まで行っていると予定の時刻に帰れなくなるので西条(にしじょう・入場券⑤)でD50を降り、次の明科で交換してくる旅客列車(15:19発423列車、新宿発長野行きという長距離鈍行)を待つことになっていた。その列車の機関車はディーゼル電気機関車DF50の重連。キャブに乗れるように頼もうかと言われたが、何となくD50の余韻に浸りたくて、それは辞退して(今思えばもったいなかった)客車で半分眠りつつ16時33分に長野へ戻った(乗車券⑥)。
機関区では皆さんが待っておられて、すぐにテープを再生した。音を聞きながら「ああ、あの踏切だ」「冠着トンネルに入った」とにぎやかなこと。「あれ?汽笛のタイミングが少し遅いな」「実は私が」「ああそうかー」「無事でよかった」「さあ風呂に入っておいで」・・・とまあ何とありがたかったことか。煤のついた体を洗い、さっぱりとしたところで、何度も何度もお礼を言って機関区をあとにした。
昼食も夕食もどこでどう食べたか覚えていない。とにかく駅に着くと、22時35分発の不定期準急「おんたけ」名古屋行き1808列車はもう入線していた。一夜明ければ次の目的は亀山(三重県)のC51だ。だがその前に私には行かねばならないところがあった。(その2に続く)