房総半島の中央部のやや南。鉄道旅では千葉県で最も行きにくいところの一つが大多喜町。徳川四天王の一人本多忠勝が築いたという大多喜城や風光明媚な養老渓谷を抱える文化の香り高い町で、1988年に第三セクター化された「いすみ鉄道」が、観光客を呼び込んでいる。鉄道フアンには人気の路線だ。
そこはいすみ鉄道になる前の国鉄時代、木原線と呼ばれていた。房総西線(現・内房線)の木更津と房総東線(現・外房線)の大原を結ぶ計画から名付けられた木原線だが、木更津からの久留里線の終点上総亀山と、木原線の終点上総中野の間をつなぐことができず、木原線は名ばかりになってしまった。上総中野では、五井から安房小湊を目指して建設を進めてきた小湊鉄道がその先を断念していて、国鉄木原線との連絡駅になっていた。上総中野駅は小湊鉄道が先に開業していて、今も管理は小湊鉄道が行っている。線路は接続されておらず、相互乗り入れは不可能になっている。さて、私が初めて木原線を訪れたのは、大多喜駅入場券①の日付にある1963年10月6日だった。高校2年生の時だ。木原線にいるキハ07という旧式(機械式といって、チェンジレバーによるギアチェンジが必要だった。自動車でいうマニュアル車と同じ)のディーゼルカーの撮影をしたいと思ったからだ。その頃、関東一円でキハ07がいるのは木原線だけだった。勝浦機関区に配属された5両(1964年4月1日現在の国鉄動力車配置表による)のキハ07が活躍していた。大多喜駅でキハ0734を撮影②。小谷松方向に歩いて夷隅川を渡る姿③を撮影した。この場所はその10年後にも撮影に出かけた(車両はキハ30に代わっていた)が、今は樹木が茂りだいぶ様子が変わっているらしい。国吉駅の入場券①の日付1965年9月7日は大学1年の夏休み中だった。国吉に父の用事があり代理で出かけた際、貨物列車の写真④を撮った。都会では入れ替え用に働くDD13が15両ほどの貨車を牽いてやってきた。実はその3年後のものだが、木原線内宛ての貨物の車票がある。鉄道の前回のコラム「お客様はサバ様」の車票と同じ時に入手したものの中に貴重なものがあった。鉄道の保守には欠かせない枕木⑤と砕石⑥のものだ。枕木⑤の方をよく見ると、国吉、大多喜、総元に100本ずつ運ばれたのがわかる。木原線の貨物列車は1969年に廃止され、その後は自動車輸送になっている。もちろん今のいすみ鉄道に貨物列車はない。