今から64年前の1959年7月14日23時。国鉄東京駅を1203列車急行「伊勢」が発車した。いつもは201列車急行「大和」と名古屋までの併結で22時45分に東京を発っていたのだが、この日から8月30日までは名古屋行き不定期急行1203列車への併結とされていた。名古屋から203列車となる「伊勢」にとってこの時刻変更は、年末年始や連休などの多客時にはよく行われていたことで、特に異論があるわけではなかった。「大和」と併結の時も、名古屋で分割され203列車として「大和」の15分後を走るダイヤだったから、名古屋から先は時刻変更もない。当時のJTB時刻表(1959年7月号)の優等列車編成表にも、1203列車運転時の編成が4段目に「大和」とは別に掲載されている①。
ただ今回は期間がずいぶん長い。それに今までの1203列車の時は前の方に名古屋止まりの車両が7両つながっているだけだったが、この日は5両の伊勢を挟んで後部東京寄りにも4両の客車がつながっていた。①の編成表には書かれていない4両だ。そこにはマロネロ38という2等(当時は3等級制の時代)C寝台と2等座席の合造車が入っているというのだ。後ろは何者だ? 4両の内3等座席車が2両。3等寝台車が1両。ここまではわかる。「伊勢」にだってつながっている。でもマロネロ38とは何だ。時刻表1959年7月号を見たか? 7月15日からの改正ダイヤにも付録の臨時列車時刻表にも載っていないぞ・・・。よく見たら時刻表表記はないが付録の臨時列車時刻表の余白に「伊勢に新宮行き併結」と書いてある②。列車名は書かれていない。聞けば東京駅のホームの発車案内も「急行伊勢」としか書いてない。翌7月15日の改正時刻表にも何も書いてない。そういえば明日7月15日は紀勢本線が全通すると言っていた。そこへ行く車両か?でもその改正後の時刻表にだって何も見当たらないぞ。そうか、8月30日までの臨時列車だから載ってないのだ。それにしてもそんな臨時列車に何で2等寝台が付いているのだ。「伊勢」は大いに不満だった。
東京発車から名古屋まではEF58の牽引だった。日付は7月15日になっていた。名古屋で前方の7両を切り離し、反対方向に向かって名古屋区のC57が関西本線を走る。いつもならC57のあとに「伊勢」だったが今日は前に変な奴が4両いる。桑名、四日市、そして亀山。ここでまた反転して「伊勢」が前に出る。ナニ? 亀山区のC57の前にDF50がいる。重連だ。津、松坂、多気(前日までの相可口を改称)と、ここで先頭のDF50が切り離された。ヤレヤレやっといつもの気分で鳥羽まで、伝統ある「伊勢」らしく走ることができる。あとで聞いた話だが、「伊勢」が発車した後、DF50が後ろの4両を牽いて新宮まで行ったらしい。
実はこの後ろの4両は紀勢本線の全通により、急行「那智」として登場した列車であった。下りは1959年7月14日東京発、上りは7月15日新宮発が最初で評判がよく、臨時列車としての運行を終えた後、9月22日のダイヤ改正で定期列車に昇格。「伊勢」「能登」との併結(「能登」は米原経由東京~金沢の列車で東京~名古屋間併結)で運転された。ただ4日後の9月26日に伊勢湾台風の被害で不通となり「伊勢」「那智」とも運休。関西本線の名古屋周辺は復旧に2か月を要した。「那智」を併結した「伊勢」は参宮線や紀勢本線の復旧により10月23日~11月25日に草津線廻りでの迂回運転が実施された。その詳細は記録があまりなく私は調査中。判明次第このコラムに書くとしよう。
「伊勢」に新宮行きを併結するために、東京~名古屋間を「大和」と分割して1203列車(上りは1204列車)として運転されたこの時期の「伊勢」の実態を知ることのできる時刻表を掲載しておこう。下りはわかりにくいので上りの関西本線部分③を見ていただきたい。7月14日までは名古屋まで約15分「伊勢」が「大和」に先行し、名古屋で「大和」の到着を待って併結していたのだが、7月15日からは名古屋~東京間も「伊勢」が「大和」に先行していたのがわかる。ここに「那智」の記載はなく同じ時刻表1959年7月号の付録に②が載っているだけなのだが、「伊勢」としては何となく不満の残る「紀勢本線全通」だった。
当時の列車の写真は鉄道『ピクトリアル』誌1959年9月号などをご覧いただくとして、私の所蔵品から「伊勢」の愛称板④を紹介しておこう。(急行伊勢物語その3に続く)