かつてのコラムに何回か、私はD50とその従台車を2軸に改造したD60を好きだと書いた。今回は東北方面のD60を訪ねたあの時を思い出してみたい。といってもD60を狙って出かけたのは2回だけだった。
まずは横黒線(おうこくせん)の和賀仙人(わかせんにん)。入場券①の日付によれば1965年12月25日。このときは東北本線の夜行急行「第3十和田」で花巻へ向かい、構内の外れで釜石線のD5080や東北本線の巨人機D6212が牽く長大貨物列車などを撮った後、花巻電鉄の馬面(うまづら)電車たちに面会したのち、北上に戻り横黒線の人となった。
今は北上線というが当時はまだ横黒線と呼んでいた。「横」は奥羽本線の横手の「横」。そこと東北本線の黒沢尻を結んでいたのでその「黒」をとって横黒線と、黒沢尻が北上に駅名を改称されてからもだいぶ長いこと線名はそのままだった。北上13時24分発の721Dで和賀仙人へ。次の723Dまでの1時間半の間に貨物を牽いてD60が上り下り各1本、入れ換え中が1本。計3両のD60に会うことができる。横黒線には撮影名所もあるのに、なぜ和賀仙人に行ったのか。それには深い訳があるのだが、鉄道とは無関係なのでここではやめておこう。
着いたら小雪の舞う中D6054が貨車の入れ替え作業をしていた②。D6054は元D5051で1925年5月15日に日立製作所笠戸工場で誕生。米原、福井、長万部で活躍ののち、1954年8月14日に国鉄浜松工場で、ローカル線対応のため従台車を2軸に改造、以来1967年3月31日に廃車されるまで、ずっと横手機関区で横黒線の列車を牽いていた。その間1966年10月の東北本線集中豪雨被害による清水川~小湊の不通時には、奥羽本線に迂回となった特急「はつかり」や「はくつる」の横黒線内牽引の先頭に立った。
写真③は和賀仙人駅に進入するD6052の牽く上り貨物列車。D6052は元D50192でD6054と同じ日立笠戸で1927年6月18日に誕生。沼津や高崎で活躍ののち、1954年7月24日に浜松工場で改造されD6052となった。D6054と同じ横手に配属され横黒線で働いた。54は1967年3月に廃車されたが、こちらは同年3月27日に郡山に転属。翌年9月に更に北九州の直方(のうがた)に転じ、1972年5月1日に廃車されるまで働き続けた。その直方で私の訪問時には、すれ違いで再会できなかった。
和賀仙人の後、横手に出て上野からの急行「たざわ」に乗って秋田へ。この列車では食堂車スシ49が営業していて、軽食をとりながら「タタタン・タタタン・・タタタン・タタタン・・」という3軸台車の客車の音色を楽しんだ。秋田へ行ったのは翌朝8時の「白鳥」と「つばさ」の同時発車を撮るため。あとは湯沢で山形交通の電車を撮ったり乗ったりして、湯沢からは「第2つばさ」で帰ってきた。
私は磐越西線のD50を何回か撮りに行っておきながら、郡山から東(磐越東線)に入ったことがなかった。D60が磐越東線にあれだけいたのに、である。それが1967年10月には常磐線の平~仙台間の電化による常磐線の蒸機全廃の話があり、平まで行くことにした。平、といえば磐越東線の東の起点である。平機関区にはC62など本線用大型機のほかに、当然磐東のD60がいる。あと1年早ければ旅客列車を牽くD60の姿を見ることができたのだが、ここも急速に無煙化が進んでいた。夏井渓谷に沿って走る姿を求めて川前~夏井間に行ってみた。9月29日とはいえ秋の気配はなく真夏の日差しが照りつけていた。やがて郡山に向かう下り貨物がのぼり勾配を力強く登ってきた④。先頭のD6068は元D50136で1926年11月に川崎造船兵庫工場で造られた。浜松、直江津、糸魚川と東海道や北陸本線で働いたのち、1955年3月26日に浜松工場で改造されD6068となった。はじめ大分で久大本線の列車を牽いたが、翌年には郡山に移り、1962年3月31日に郡山工場で勾配線区対応の重油併燃装置を取り付けられた。写真から判断するとテンダーへ取り付けるタイプだったようだ。私が出会った10か月後の1968年7月20日、郡山で廃車となった。あの暑かった日のドラフト音は今も耳と心に残っている。この写真はその後入社したF火災海上保険の社内誌を飾り、年賀状にも使ったので、ああまたこれ?!という方もおられるだろう。私にとっては一番思い出深いD60の写真である。