• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

あれからかれこれ53年になる。1970年3月24日は都心からの蒸気機関車(蒸機)による列車が最後を迎えた日である。都心という基準があいまいだが、東京23区内としておこう。その後鉄道100周年記念列車が1972年に東京駅から横浜港駅まで走ったなどの特別なイベントは別として、定期列車としては、あの日房総東線(現・外房線)蘇我駅でのさよなら式典の後、2184列車として越中島(貨物)駅までを走り、折り返し、越中島でのテープカットの後、新小岩操車場まで走った874列車が、東京23区内の最後の蒸機列車となったのだ。

この日、損保会社に入社後満1年になろうとしていた私は休暇を申し出ていたが、写真に興味があると知られていたことが災いし、部課長を集めて社長が訓辞をするので社内誌用にその写真を撮れ、との職務命令が出た。結局撮影は冒頭だけでよいからということになり、蘇我の出発式は無理だが、市川までならなんとか行けそうだとわかり、12時半頃、千葉県最後の総武線市川駅通過後①とその後ろ姿②(ここは江戸川橋梁だから千葉県ではないかも)を撮った。慌てていてあまり良い写真にはならなかったが、これが地元千葉県で私が撮った最後の蒸機列車(その後のイベント列車を除く)になった。

その後すぐに越中島(貨物)駅に向かった。今なら京葉線があるが当時のこと、多分亀戸からバスで向かったように思う。詳しくは記憶がないのだが、14時半頃の出発式には間に合った。きれいに化粧された牽引機D5121③はやがて貨物列車の先頭に据えられ、比較的簡素なテープカットの後出発した④。いよいよこれが千葉鉄道管理局(千鉄)管内、そして東京23区内最後の蒸機列車の出発⑤だ。終着の新小岩(操)での式典は、夕方までに会社に戻れとの社命に逆らわずに諦めた。おかげで、当日社長訓示の受付を務めた女子社員と一緒に、社長を囲む懇親会の末席に座らせてもらえた。新小岩に行った方がよかったかどうかは今でもわからない。

D5121は1936年3月24日に汽車製造(大阪)の製番1378として誕生。初期型のD51で煙突から蒸気溜にかけてのカバーが特色で「ナメクジ」と呼ばれたうちの1台である。千葉にはその頃同じナメクジのD5150がいたが、重連は夜中に上り貨物が1本あるだけで、2台ともナメクジというのには出合えなかった。当初山北機関区に配属され御殿場線で活躍ののち、1951年に常磐線の原ノ町機関区に転じ、平機関区を経て1968年10月1日に総武線新小岩機関区(千鉄)にやってきた。最後の1年半、新小岩~蘇我・佐倉で貨物を牽いたが上述の1970年3月24日(満34歳の誕生日)の活躍を最後に、翌4月9日に廃車・解体された。

 


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