先月の米坂線に続いて今月も雪景色である。D51900とC6128を私は1969年の冬、奥羽本線の矢立峠で撮影した。矢立峠は奥羽本線北部、陣馬~津軽湯の沢~碇ヶ関の間10.7kmにあり、25‰(1,000分の25)という急勾配と最小半径300mの急カーブが続き、7つのトンネルで超える難所だった。現在は1970年11月5日に開通した新線の矢立トンネル(全長3,180m)で難なく越えているが、私が訪ねた時は補助機関車(補機)が必要だった。下り普通列車は陣馬駅で、上り普通列車は碇ヶ関駅で、それぞれ列車の後部に後押しの機関車(D51)が連結された。急行列車や貨物列車には下りは大館駅で、上りは弘前駅で補機が連結された。急行「津軽」や「日本海」もその解結(連結・解放)のために大館と弘前では4分停車のダイヤが組まれていた。
さて今日はD51900とC6128の話である。この2両の蒸気機関車(蒸機)。私も撮影時には全く気付かなかったのだが、実は同じ工場で、1か月違いで製造されたD51兄弟だったのである。鉄道ファンの方ならご存知のように、C61は貨物用のD51を旅客用蒸機に改造して生まれた型式である。だからC6128にはD51時代のナンバーがあるはずだ。
写真①は碇ヶ関駅での上り普通列車への補機連結風景である。弘前方に待機していたD51900が急勾配に備えて蒸気を目いっぱい上げ、力強く進んできた。D51900は1943年12月30日、三菱重工業三原工場の製造番号403として誕生。皇室御下賜の青銅製花瓶をボイラーの安全弁に再生利用したと記録にあり、いわゆる「ホマレの機関車」である。戦時型D51の例にもれず、製造時はランボードやデフレクタ(除煙板)が木製だったが1952年1月に鋼製に改装された。1968~1970年ごろは弘前機関区に配属され、矢立峠の補機としての活躍が多かったようだ。その後北海道に渡り、1973年11月30日に鷲別機関区で廃車となった。
写真②は、津軽湯の沢から1kmほどのトンネルポータルの上で撮影した青森始発上り院内行き普通列車でC6128が牽いている。後部に補機がついていて、もう少し左から撮りたかったのだが、トンネルの上はかなり狭く、雪の急斜面は滑ったら命がないなと断念した。このC6128の車歴を調べて驚いた。①のD51900が誕生して1か月後の1944年1月30日に、同じ三菱重工業三原工場で誕生。製造番号は407。誕生時のナンバーはD51904であった。第二次大戦後の旅客列車需要の高まりからD51⇒C61という改造が始まり、1948年11月25日に日本車輌名古屋工場で軸配置1D1のミカドから2C2のハドソンに生まれ変わった。しかしボイラーや運転台、テンダー(炭水車)はD51904のままなので、D51900の弟であることに変わりはない。1969~1970年に青森機関区に配属され、矢立峠越えの列車を牽引した。その後こちらは九州宮崎機関区に移り、1973年8月20日に廃車された。
この2輛の蒸機は履歴から推定すると、私が矢立峠を訪ねたその前後2年ほどだけ、あの峠で顔を合わせていたようだ。最後は北へ渡ったD51900は室蘭本線の貨物列車でたくさんの道産子を運び、南へ行ったC6128は日豊本線の旅客列車を牽いて大淀川を渡り、霧島連山を望む日々を送ったに違いない。撮影時には全く想像もしなかった思いに、今頃耽っている。