先月「一番短い名前の駅・津」について書いた後で、私の地元千葉駅には「0番線ホーム」①があったのを思い出した。移転新築された新・千葉民衆駅(駅ビル)にはもちろんないのだが、1963年4月27日深夜までは確かにあった。
千葉駅(国鉄・現JR)は1894(明治27)年7月20日に総武鉄道の市川~佐倉間の開通により現在の東千葉駅付近(現在、千葉市民会館のある所)で開業した。2年後の1896年2月25日には房総鉄道が乗り入れ、1907年9月1日の鉄道国有化で国鉄(当時は帝国鉄道庁)の駅となった。駅舎は1923年9月1日の関東大震災で被災し、1927年3月に改築された。その2代目の駅舎は私が高校2年の初めまで使った「0番線ホームのある駅」だった。
当時は東京方面から佐倉・銚子方面に向かう東西を結ぶ路線に、南から北上してきた房総西線・東線(現、内房線・外房線)の路線が現在の千葉駅付近(元・千葉機関区)で合流する形。東京方面からの列車が房総方面に向かうにはスイッチバック(折り返し)をせねばならなかった。私は地元でも駅舎の写真を撮っていなかったのだが、千葉民衆駅開業15周年記念入場券④の右にある写真が昭和の初めごろ、千葉駅開業88周年記念入場券⑤の左の写真が大時計も付いた1960年ごろの姿である。
とんがり屋根の正面から改札口を入ると目の前が2番線で、跨線橋で渡ったその向こうのホームの3番線とともに総武線電車(お茶の水方面、現在の中央・総武緩行線)が発着していた。4番線は多目的で、さらにその向こうホームの5・6番線が総武本線や成田線の発着に使われていた。・・・1番線はどこか?
改札口を入って左に行くとすぐに行き止まりとなっている房総方面からの列車のホームがあり、そこが1番線だった。千葉は早くから気動車化されていたが蒸気機関車の列車もあり、機回し線と貨物ホームもあった。房総方面のホームはこの1番線と時おり4番線が使われたが、列車本数の増加で房総方面用ホームを追加することになり、貨物ホームだったところを0番線として使うことになった。私が小学校低学年のころだったと、朧(おぼろ)げに記憶している。規定では本屋(主駅舎)側から1番線・2番線と順につけるのだが、既にあったホームの番号を変えるのは大変で、苦肉の策として「0番線」が誕生したようで、珍しいと話題になった。
①は1962年6月ごろの写真でキハ17+18+17+26×3+17+35の8両編成と思われる。キハ26は懐かしい準急色である。キハ17などは朱とベージュに塗り替え後である。写真②はC58型蒸気機関車が大正生まれの17メートル級ダブルルーフ(二重屋根)のスユニ30(車号9)やオハ61などを牽いて4番線から佐倉方面に向けて発車していくところ。③は千葉駅が新駅に移転した後、倉庫として使われていた旧駅舎のそば(元3番線)を通過し新駅に向かう総武本線銚子からのキハ17系4連の千葉行き普通列車。
1963年4月28日、当時はやりだった民衆駅となった新・千葉駅は3代目の駅舎(④⑤)で、東京方面からは駅舎を挟んでY字型に総武・成田方面と房総方面に分離され、スイッチバックも0番線も解消された。1階は広いコンコースで左に出札窓口が並び正面がいくつもの改札口で通勤ラッシュ時にも十分対応した。2階から上がいわゆる駅ビルで、店舗・食堂・宴会場などがあった。屋上の展望回転レストランは人気でいつも混んでいた。2016年11月20日にはそれも建て替えられ、出・改札は3階になり、電車に乗るにはエスカレーターで3階に上がってから2階のホームに降りることになる。時間に余裕を持って駅に行かねばならなくなった。0番線のあった旧駅では2番線なら「おーい待ってくれ~」で乗れたのに・・・。