ちょうど2年前(2019年1月27日)の鉄道のコラムに「43年前北京の地下鉄に乗った話」を書いたが、今回はその時の鉄道旅の話である。1976年11月12~26日の15日間にわたる「日中友好千葉県各界訪中団(18名)」の旅の中で、11月18日に鄭州(ていしゅう)から西安へ移動する際に列車に乗る機会があった。普通なら航空機移動らしいのだが、団員に鉄道ファンの私がいることへの配慮と言われた。500km余りの行程が鉄道旅となった。
昼過ぎに着いた鄭州駅には、当時はどこにでもある風景だったが「毛主席万歳」の大看板が掲げられていた①。上海からかなりの時間をかけてやってきたのは急行(直快)西安行き②だった。13両編成の12両目に鄭州で増結された我々のための車両は軟臥車(JRのA寝台車)で、ゆったりした乗り心地だった。機関車は東風型ディーゼル機関車で、途中の三門峡で蒸気機関車に交代した。洛陽東駅で10分停車があった③④。団員の中に著名な書家が3人いらしたのだが、その方たちが希望した洛陽訪問は日程の関係でかなわず、「この10分停車の間に洛陽の土を踏みしめてください」とのアナウンスもあった。まだ自由な訪中は難しい、そんな時代だった。
このあたりでは、貨物列車は大半が蒸気機関車牽引で、車窓からは「人民型」や「解放型」蒸機⑤をよく見かけた。洛陽を出てしばらくすると本線同士の立体交差⑥があり、ちょうど眼下に蒸気機関車の牽く貨物列車がやって来た。別の場所では荒涼とした大地の遥か彼方に蒸機の煙が見えた。通訳(工作員)に聞くと数十キロ北に離れた路線で、複線にするのではなく別に単線の路線を敷いて、輸送力の増強を図っているのだと説明があった。
あたりが暗くなった頃、食堂車に案内され夕食を食した⑦。そのおいしかったこと。列車食堂であれほどうまい食事をしたことは国内外を通してほかにないと思う。かつて人気を博した「特急北斗星」のディナーもあれにはかなわない。その時のお茶の袋が⑧⑨である。お茶の葉が入っていて、それをマグカップのような蓋付きの湯飲み茶わんに入れると給仕がポットから熱いお湯を注いでくれた。茶葉が沈むのを待って飲む、という次第。袋の右下にそのカップが描かれている。この食堂車は廣州鉄道局、長沙客車区の担当だったことがわかる。今はティーバッグになっているようだ。
西安には22時ころに着いた。ホテルは有名な人民大厦(じんみんたいが)だった。しかしちょうど唐山の大地震の後で、ホテル前の大通りにもテント小屋が並び、大勢が避難して暮らしていた。外来の我々は極力見ないようにと言われた。翌日隙間の時間に同行の工作員の許可を得て西安駅に行き駅裏の機関区を見た➉。さほど広くないが蒸気機関車の姿があった。ここには大型の「前進型」も多く配置されていた。その後1994年に西安駅を訪ねた時は、電化され蒸気機関車の姿は全くなく、構内の雰囲気も少し現代風になっていた。手前左が旅客用ホームのある本屋側で、この人たちは駅裏の方に行くのだろう⑪。
私の過去4回の訪中はいずれも友好交流事業で、案内してくれた通訳(工作員)の方々には大変お世話になった。工作員の中には中国版「美智子皇后」(現、上皇后)の著者や通産省の局長になった方もあり、その後訪日の際に我が家を訪ねてくれた方もある。政局に左右された方も多いと聞くが皆さんどうしておられるか。あらためて感謝を伝えたい。