去る12月17日のコラムに三美運輸のB6について書いたが、今日はその近くの美唄鉄道についての記憶を記そう。
美唄は石狩炭田の中心地として中学の地理で教わった記憶がある。その美唄には三菱と三井の二つの大きな炭鉱があり、石炭輸送の鉄道があった。
1965年の夏旅で友人とともに美唄を訪れたのは、交通公社(JTB)の時刻表に載っていた三菱石炭鉱業美唄鉄道であった。
その日は朝から小雨が降りあまり良い条件ではなかったが、国鉄美唄駅隣接の美唄鉄道美唄駅から4122(4110型式Eタンク機)の牽く混合列車(一般貨車数両に国鉄にはもうなかった古い客車2両)に乗って終点の常盤台を訪ねた。乗ってきた混合列車とターンテーブルに乗る7号機のいる炭鉱鉄道の風景①や、その7号機②を撮影しただけで、次の目的地夕張(2020年3月7日のコラム参照)に向かった。7号機は元国鉄の9616で、運転台下が優雅にSカーブを描く初期型9600型式(9600~9617)の1台だった。1958年に払い下げを受け、1971年に同系列の大夕張鉄道に移籍しそこのNo.8となった機関車である。
2年後1967年の7月、私は5月ごろから北海道各地に残っていた炭鉱の鉄道事務所に手紙を出して情報を集め、蒸気機関車への添乗許可も得て、国鉄発行「北海道均一周遊券」の有効期間ぎりぎりの日程であちこち訪ね歩いた。美唄には2日間を宛てて再訪した。その日、鉄道の事務所では私の住む千葉市出身という方が待ってくださっていて、宿代がもったいないからとその方の自宅に泊めてくださった。4110型式蒸気機関車の運転台への添乗も許可されていたが、その日は月曜で荷が少なく重連の内1両は9600型式(6号機)でそちらが本務機とのことだった。つまり録音するなら「喚呼応答」のある本務機の方がよいのではと言われ、迷ったが「喚呼応答」を選んだ。4110の音は翌日の4122+4137③の重連④の撮影時に線路端にテレコを置いて採った。・・・はずが、テレコのリモコンがうまく作動せず、しばらくの間茫然自失であった。写真も靄(もや)の多い日で何ともすっきりしなかったが、「もう一日」というわけにもいかずあきらめて、三美運輸のB6を目指して南美唄に向かった。前回のコラムがそれである。
⑤は我路(がろ)付近を炭山に向かって石炭列車ではない普通の貨物列車を牽く7号機の姿。⑥は美唄の庫内で全般検査のため動輪(手前の5軸)などの足回りを外された4号機。③の4137(元国鉄4137)と比べるとおわかりいただけると思うが、シリンダーカバー周りのデザインが異なる。美唄鉄道が自社発注した自慢の機関車3両(2~4号機)の内の1台。⑦は駅の入場券。⑧は乗車券各種。一番上の往復乗車券は、最初の訪問時のもので、あとは再訪時にいただいた廃札など。
美唄の近くには北星炭鉱美流渡鉱業所があったがそれについては最初のコラム(2018年4月10日)を参照願いたい。
美唄炭鉱の最後の頃は蒸機ブームになって、1972年には炭鉱閉山による鉄道廃止、さよなら列車の案内も受け取っていたが、私は新人サラリーマンで忙しく、ついに彼の地を三度訪れることはできなかった。遥かな美唄に思いを馳せ、彼らの最後の活躍を祈ったのを思い出す。