今年11月7日のコラムで「石原産業のB6」を取り上げたが、私はその前年1967年7月、2度目の渡道をした際、美唄でB6に会ったことがある。
美唄では三菱石炭鉱業の美唄鉄道が旅客輸送もしていて有名だったが、その近くに三井の子会社「三美鉱業」の専用線があることはあまり知られていなかった。三美(さんび)運輸が輸送に当たっていて、国鉄の南美唄駅と1.2km先の炭鉱を結ぶ専用線には2台のB6が働いていた。専用線というのは専用鉄道より格下の扱いで、以前コラムに書いた貝島炭鉱の専用線と同じ扱いだった。神奈川県の鶴見工業地帯を走る鶴見線のそばを、かつて工場から時々顔を出して走っていたのも浅野セメントなどの専用線の蒸機だった。決まったダイヤはなく必要に応じて走らせるので、情報収集が大変だった。美唄鉄道で聞いた「南美唄に行けば何かわかる」を頼りに、南美唄に出かけた。しかし函館本線南美唄支線という3kmだけの支線は日中列車がなく、美唄からバスで行った記憶がある。この旅は単独行だったが、「北海道均一周遊券」の有効期間ぎりぎりの行程はかなり綿密に作ってあり、日程の余裕はあまりなかった。結局、南美唄駅付近での撮影で終わってしまったが、生きているB6に出会えた数少ない体験の一つとなった。
三美運輸が保有する機関車は2台のB6で主に入れ替え作業に働いていた。貨物列車には国鉄のD51が乗り入れていた。「1号機」は米国ボールドウイン社製(1905年)の2500型式、元「2649」で、手宮、岩見沢など道内で活躍後、1935年に明治製糖(のち日本甜菜製糖)士別工場に払い下げ。その専用線での役目(冬場の甜菜の収穫期だけ使われた)を終え、1964年にスクラップとして購入した三邦機械が1967年4月に三美運輸に転売し同社2代目「1」となった。私の訪問直前に入線したらしいのだが、残念ながら鉱山の車庫にいるらしく会えなかった。米国製のB6は雰囲気が「アメリカ」といった感じで、車庫まで行っておけばよかったと後悔している。
私が南美唄駅構内で出会ったのは「2号機」①。こちらは正統派B6。英国ノースブリティッシュ社製の2120型式、元「2248」である。1905年、日露戦争中の陸軍野戦鉄道提理部に配属されのち南満州鉄道で標準軌に改軌されるなどした。1908年に本国入りの後は早岐、大分、秋田などで入れ替えに従事。1955年に横手で廃車。士別の日本甜菜製糖に売却された後、1963年に三美運輸にやってきた。これも同社2代目「2」なのだが、初代は「1」と同じ米国製だったらしく「型式2500」と入った「2」のプレートがついていた。初代のプレートをそのまま使ったのだろう。わずか数両とはいえ、貨車を牽いて力走する姿②には感動した。半世紀以上が経った今も、あの姿は脳裏に焼き付いている。音と匂いとともに。1973年3月の炭鉱閉山による専用線廃止で「1」とともに廃車された。2台とも解体はされず個人所有(非公開)で健在が確認されている。
このコラムを書くにあたって、道内の炭鉱の「今」を調べてみたら予想していなかったことがわかった。今年6月末の太平洋炭鉱(釧路)の閉山で、商業用の炭鉱はすべて無くなったのかと思っていたら、道内の石炭火力発電所の需要に応え生産計画を立てて、7社が露天掘りで石炭の採掘を続けていることがわかった。三美鉱業も美唄でしっかり採炭しているというのだ。空知炭礦や芦別鉱業など懐かしい名前もあった。美唄鉄道や雄別鉄道などの記録はいずれまたの機会に。