私が貝島炭鉱を初めて訪れたのは1966年7月11日のことであった。今までのコラムに2度書いたことのある西日本への初旅の途中だった。呉市電や呉線の大型蒸機を撮影後、7月10日の夜中(1時50分発)に広島から乗った西鹿児島行き急行「桜島」の車内は空いていたが、あちこちに日本酒やビールの空き瓶が散乱し、床に寝ているオジサンもいた。仮眠程度で5時50分に下関に着いた私は、下関市電や関門トンネルの入り口付近の撮影をした後、香春(かわら)・伊田・直方と巡り、夜遅く筑前宮田(入場券①は翌日購入)に着き、下り終列車⇒翌日の上り始発列車担当の乗務員が泊まるという駅前旅館を紹介されてそこに泊まった。朝起きたら部屋の電灯がつけっぱなしのままだった。
駅で貝島炭鉱の列車はいつ来るか尋ねても、専用線はその直前にならないとわからないというのでまず貝島炭鉱の中心地「長井鶴(大之浦六杭)」に西鉄バスで向かうことにした。あいにく雨が降りだしたが事務所で許可をいただき、炭砿らしい雰囲気の中、蒸気を上げる31号機(②)などを撮影した。
貝島炭鉱は筑豊御三家の一つと言われる貝島財閥の貝島太助氏が開発した炭鉱で、大之浦鉱は露天掘りでも有名だった。
当時貝島炭鉱には、ドイツ(オーレンスタイン・コッペル社)製(銘板③)の31号(⑦)と32号機関車。それにアメリカ(アメリカン・ロコモチーブ社=アルコ)製の21~23号機の計5両の蒸気機関車がいたが、21号機は既に廃車状態だった。本線(といっても専用線だが)仕業は2両のコッペルが交代であたり、アルコは構内仕業が中心と聞いた。アルコの内23号機(④)には自動連結器が付いていたが、22号機(⑤)はチェーン・バッファ式のままで、機関車の前後に自動連結器を備えた控え車をつないでいた。
その後、あと1時間ぐらいして貨車の準備(石炭の積込)ができたら筑前宮田駅まで列車を出す。それも後部に22号機を補機としてつけるとのことで、雨の中、バスの中から見つけておいた鉄橋のある撮影ポイントに行き、傘を差して列車(⑥)を待った。
その後、筑豊を訪問の際、天気の良い日に改めて何回か立ち寄り、上記③④⑤⑦のほか、あの鉄橋で今度は山へ帰る列車(⑧)を撮影した。
しかし私企業の専用線なのであまり情報が入らず、1976年6月末の廃止(閉山は8月)の報はあとで知った。国鉄蒸気機関車の最後(北海道夕張の追分駅構内の入れ替え用3両の9600型)から更に3か月余り走り続けた。その頃、北海道に残っていた炭鉱の専用線や専用鉄道が、ディーゼル機関車で石炭を運んだ(その最後は今年6月末に廃止された釧路の太平洋炭鉱だった)のに対し、筑豊最後の炭鉱はその最後まで蒸気機関車で石炭を運び続けた。貝島炭鉱の鉄道は最盛期には二杭や五杭、採砂場への路線など18.5km以上あったとされるが、最後に残った筑前宮田駅~長井鶴(大之浦六杭)は約2kmだった。