1966年の夏の暑い日、千葉気動車区に目新しい気動車が2両いるのを発見した。翌日気動車区を訪ね、それが新しい動力システムを使った新系列気動車となる試作車両であることを知った。キハ90とキハ91(①②)の各1号車である。この2両は車体形状が少しずつ異なり、似て非なる車両だった。
早速その足で千葉鉄道管理局文書課広報係を訪ね、お世話になっている元吉係長(当時)や藤崎さん(後に香取駅長)に、まだ始まってもいない試運転に乗せていただきたいとお願いした。調整の結果、9月6日の試運転に乗せてもらえることになった。
当日、指定の時刻(記録をとっていなかったが多分10時10分、臨時急行9119Dのスジ)に千葉駅4番線ホームの端の方で待機。先頭からキハ901+キハ911+キハ26×2の4両編成だった。不測の事態に備えて千葉の主力車両のキハ26が2両連結されていた。その2両は死重扱いで牽引される形だった。ドアを開けていただき先頭のキハ901の車内へ。すぐに「見学の学生さん、運転室にどうぞ」と車内放送で案内され、喜んで運転室へ。運転士は千葉気動車区のエース(皇太子ご夫妻のご乗用列車など、重要列車の運転士に指名されることが多かった)青木康彦さん。運転室にはほかに2名(③④)。鈴木千葉気動車区指導助役と、これまた著名な元運転士の相澤検査主任。それまでの気動車に比べると格段に広い運転室は私が入っても十分で、運転台(⑤)も新機軸だった。
いよいよ出発進行。本千葉に向け高架上を行く。客室内では各種機器のデータを読み取り記録する職員の姿があった。やがて蘇我駅通過。房総東線との分岐手前で線路上に農作業の大きなかごを背負った老婆を発見。警笛を鳴らすと同時に「テイシ!!」の掛け声と緊急ブレーキ。おばあさんは線路脇の電柱の影に身を寄せ、どうやらかなり震えているようだった。試運転は臨時列車なので知らないとかなり危険だ。そして普通はそんな臨時列車は誰も知らない。「婆さーん、気を付けろよー」と青木運転士が大声をかけながら、何事もなかったかのように運転再開。しばらくしてから運転室内も皆気を取りなおしたが、あの瞬間は本当に危険を感じた。そういえば撮影で線路をよく歩いた私も、高校生の頃、時刻表に載っていない回送列車(バック運転でくる蒸機)に気づき危険を感じたことがあった。以来必ず駅で臨時ダイヤの確認をするようになった。
さて、90系気動車は順調に五井を過ぎ長浦、楢葉(現・袖ヶ浦)、巌根と通過、木更津で時刻調整の停車。その後はそのまま上総湊(⑥)へ直行。君津付近の山間部から、海の見えるあたりまで、運転台からの眺めを楽しませていただいた。新機軸の気動車は、音も軽やかで静かだった。
上総湊で約1時間休憩し、キハ26×2と前後を入れ替え、キハ91を先頭に帰途についた。途中、単線のため長浦で下り貨物列車との交換や上り普通気動車列車の退避等があり40分ほど停車時間があった。青木運転士に誘われて先頭のキハ91の屋根上に上がった。ちょうど下り貨物がやってきた(⑦)が、電化された今はあり得ない構図だ。私も青木運転士の制服制帽をお借りして記念写真(⑧)に納まった。
青木さんは蒸気機関車の機関助士見習いを皮切りに、東船橋駅長を最後に国鉄~JR東日本の鉄道人生を終えた方だ。スト権ストなど国鉄のスト全盛時代には、動力車労組(動労)のストに反対し、当局の犬と書かれたポスターがあちこちに貼られたその人だった。しかし彼はひるむことなく信念を貫き、鉄道経営の大切さを説き、駅の助役試験を受けて運転の現場を離れた。西船橋旅行センター長の頃は団体旅行を集客し添乗員も務めた。ご本人曰く男芸者という添乗員を青木さんが務める団体列車が人気で、集客力をずいぶん発揮しておられた。最後は千葉以西の総武線電車区間の駅長にという夢をかなえた方でもある。
鈴木さんはその後佐倉機関区の首席助役として千葉の蒸気機関車の最後に立ち会われ、勝浦機関区長で鉄道人生を終えられた。このお二人に鉄道ファンとして私はずいぶんお世話になった。感謝しかない。
なお、上記の3人はその後、磐越東・西線や御殿場線での試運転に2台の気動車とともに長期出張され、後の量産型キハ65や特急用181系気動車の製造に多大の貢献をされたことを付け加えておこう。