「中国はまだ発展途上であり、住居の改善はあまり進んでいない」と説明された。その穴居生活の延々と続く車窓風景が、今どうしても私の脳裏から消え去らない。そしてその列車の食堂車で食した夕餐のおいしさも忘れ得ない。中国には本当に豊かな面と、大いなる可能性を秘めて発展しつつある面とが同居しているようだ。……」と始まる私の報告文がある。(日中友好協会(正統)千葉県本部1976年発行『友好』より)
私は29歳の時、1975年11月12日から26日まで日中友好千葉県各界代表訪中団(19名)に副秘書長として参加した。団長は後に船橋南ロータリークラブでお世話にもなった渡邊三郎元船橋市長で、私は最年少だった。訪中がまだ珍しいころで、ご縁のあった宇都宮徳馬代議士(当時)を訪ね、「今の中華人民共和国は歴史上初の漢民族による統一国家である」ことなど、現代中国についてのご教示を得て、気持ちも新たに出発した。
友好訪問であるので個人的な行動は慎むよう注意はあったが、入国してしまえばやはり私は鉄道ファン。鄭州から西安への鉄道(途中三門峡からは蒸気機関車)の旅もあった。冒頭の一文はその時のことだ。
当時の訪中団には通訳として工作員が数人ついて案内してくれた。現在の観光ツアーのガイドとは異なり、こちらからあれをしたいこれをしたいとは言えないのだが、事前に何に興味があるか希望を伝えてあった。私の関心事も伝わっていたのか先述の列車移動のほか、北京でまだ珍しかった地下鉄に案内された。
11月24日の午後、天安門からまっすぐ東へ1kmほどの宣武門駅(①)に案内された。我々のために恐らく一定の時間一般客は締め出されていたのであろう。関係者以外誰もいないホーム(②③)に、若い女性が運転する(④⑤)貸し切り(?)の電車が入ってきた。
車内(⑥⑦)は1+2列の固定クロスシートで、東京の地下鉄とは比較にならないゆとりがあった。地下鉄の職員から現在の路線のほか東西線も建設中であることなどの説明を受けた。今や25の路線を持つ(運営は6社)が、当時はその4年前に開通した1路線だけで、北京市の直営だった。電車は当時の札幌地下鉄のイメージだが、車両は長春車両工場製の国産とのことだった。どの程度の利用者があるのかなど詳細は確認できなかったが、とにかくこれから便利になるとの話だった。
9年後の1984年9~10月に、日中友好青年3000人大交流の際、(社)青少年育成国民会議代表団(30名)の秘書長として参加した時には、夕方の自由時間中に北京駅前から乗った(⑧乗車券・軟券)が大混雑でにぎわっていた。中国政府の開放政策も進んでいた。今はどんな風なのだろうか。