• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

私は電車に熱中したことはあまりない。しかしこの「クモハユニ64000」は何とも気になる電車だった。
鉄道ファンなら知っていることだが、クモハユニの意味は「郵便荷物合造運転台付き電動客車」、つまり、クォントローラー(制御車)のク、モーターカー(電動車)のモ、普通車(由来は3等車時代のイロハから)のハ、郵便車のユ、荷物車のニ、という記号である。64000は型式と番号で、64が型式で、000が番号である。この時代の採番は000から始まっていたのでつまり「1」ということになる。

1943年にモハユニ61(当時は運転台があっても電動車に「ク」を付けなかった)として汽車會社で3両が造られ横須賀線に配置されたが、戦時下で資材がなく電装されず実質は「クハユニ」だった。その後1号車だけは電装され晴れてモハユニ61001となり大糸線に転じた。さらに身延線に転じてモハユニ44100となったが、1958年、再び大糸線に配属され、第2エンドに非貫通の運転台(写真に写っている前面)が設けられ両運転台になり、その時の称号規定によりクモハユニ64000となった。1型式1両の珍車として有名だった。両運転台が重宝され、電気機関車の代用として貨車数両を牽くこともあった。

前置きが長くなったが、私がこの写真(①)を撮ったのは1967年9月6日の早朝の松本駅であった。大糸線の簗場(②)の民宿で武蔵大学鉄道研究会の合宿があり、それに合わせて何か目的を果たしながら集合することになっていた。私は普段電車をあまり撮らなかったので、大糸線の旧型国電を撮影目的にして、前夜22時35分新宿発の準急穂高で出発した。雨上がりの松本に4時45分に着き、少し明るくなってから大糸線ホーム脇に変わった電車を発見した。それがこの長い名前の車両だった。走行中の姿には接しなかったので私とこの車との出合いはこれっきりだったが、忘れがたい不思議な車となった。

その後の記録をたどると、1969年に岡山に転じ、赤穂線や宇野線で活躍。1978年には飯田線に移りフル活用され、静ママ(伊那松島区)で1984年2月19日に廃車となっている。そこでは、1943年に同時に造られ電装されずクハユニ56型式の10番台56010、56011となっていた弟2両と再会し、共に働いたものと思われる。その頃私も飯田線に撮影に出かけたが、出合わなかった。

この車の車内で押印されたかは不明だが、大糸線の郵便車内での消印のついたはがき(③)が手に入った。消印部分だけ紹介しておこう。
簗場の合宿の翌日は大糸線北部(北小谷~糸魚川は今も未電化)の小滝へ行きC56の貨物列車を撮影した。その証拠に入場券(④)を示しておこう。その後は?モチロン糸魚川、東洋活性白土の専用線。その記録はいずれ。


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