今から50年前、1968年10月1日からの福井国体に行幸される両陛下のために、お召列車が運転されることになった。その内、10月2日の、越美北線の越前大野から福井までの行程には、福井機関区所属の大正生まれの老機ハチロク(8620型)が重連で、4日の小浜線はC58型蒸機が単機で、6日の山陰本線はDD54型ディーゼル機関車が重連でその任に当たるとの情報を得て、私は10月1日早朝出発、4日深夜帰宅の日程で越美北線と小浜線に出かけた。
ご記憶の方も多いと思うが、1968年10月は国鉄ダイヤの白紙大改正があり、私はまず名古屋で中央本線に新設された特急しなの号の発車式を撮り、その後に福井へ向かった。この「よんさんとお」(昭和43年10月)については改めて思い起こすとして、ここではハチロクのお召を振り返ってみたい。
その当時のお召列車の牽引には蒸気機関車が使われることが多かった。確かな情報によれば、昭和天皇はご乗車になる列車を大勢の人たちが駅や沿線で撮影する様子をご覧になり、「なぜ?」「ああそれなら」と、蒸気機関車の使用を望まれたとのことである。蒸気機関車全廃に向けてブームが起きていた頃のことであった。
さて、2日の朝、私は福井機関区に向かった。ちょうどその前日に新設された越前花堂(えちぜんはなんどう)駅が機関区のそばにあった。機関区では、普段は越美北線の貨物列車に使われている8620型の内、選ばれた2両が国鉄松任工場での入念な整備を終え、漆黒に磨かれ、その時に備えていた。いずれもヘッドライトがシールドビームに交換されていた。88635(①)は1925年度三菱造船所製造で化粧煙突は原形のままだった。28651(②)は1919年度汽車製造會社の製造で煙突がパイプ煙突に改造されていた。重連の先頭に立つ88635は更に入念に磨かれた。(③)
列車はまず南福井駅から越前大野駅へ回送された。越前大野にはターンテーブルがなく機関車の方向転換ができないため、逆向きで牽引した。
私は美山と小和清水の間の陸橋(道路が鉄道をオーバークロス)に目をつけた。5万分の1の地形図によればそこは足羽川の清流に沿って走る風光明媚な場所と思われたからである。さあいよいよという時、巡回の警察官が上方からの撮影は禁止、と言ってきた。真上からではないから・・・・・と言いながら撮影できたのが④である。客車は当時のお召1号の5両編成で、その3両目が御料車である。
このハチロク2両の内28651は現在越美北線九頭竜湖駅に静態保存されている。