1967年1月5日未明。私は中学以来の友人E君と、上越線の夜行電車に乗っていた。小出から分岐して大白川まで(当時)の只見線に行き、C11のひく5往復の列車を撮影するためだった。雪深い上越国境を越えてしばらく、小出の手前で車内アナウンスが入った。「昨夜からの雪がひどく只見線は本日より当分の間全線運休になります」・・・仕方なくそのまま3駅先の越後川口へ。ここは長野方面へ向かう飯山線の分岐駅だ。
飯山線は高校2年の夏にE君、F君と私の3人で全線乗車したことがあった。C5694がひく貨客混合列車は途中駅での停車時間が長く、森宮野原(本州の最高積雪記録駅/入場券A)では貨物の入れ替え作業もあって35分ほどの停車時間に、駅前食堂でカレーライスを食べた記憶がある。駅員や乗務員からは「C56を見に来たんだと」と珍しがられた。蒸気機関車ブームのほんの少し前だった。
さて飯山線の一番列車は? と周りを見ても誰もいない。やがてホームのアナウンスで「除雪作業が間に合わず、しばらく運転を見合わせます」 と言われ仕方なく駅舎に行くと、「発車の見込みが立ったらアナウンスします」とのことだった。夜が明けてきたので、駅近くの踏切で、上越線の列車を撮って時間をつぶしたが、9時を過ぎても一向にアナウンスがない。まだ?と聞くと「駅前旅館で休んでいてください。連絡します」とのこと。旅館に行くと他に2人、若い女性が広間にいて、我々もそこに案内されてお茶を飲みお話をしながら待つことになった。
昼頃になってようやく駅からの連絡で、とりあえず十日町まで行くという。30分あれば着く。その辺で折り返しの列車を撮ってもいいし、うまくいけばC56も撮れる。とのんびりしていたら発車後15分くらいで何やら不吉な気配が。駅でもないところで徐々にスピードが落ちてついに停車。列車の前面に雪を抱え込んでしまったらしい。前後進を繰り返すが、やがて前にも後ろにも進めなくなった。数少ない近隣の人々も応援に駆け付けスコップで雪を取り除く(写真1)のだが、雪は次から次から降ってくる。1時間、2時間。やっと応援の除雪車が来ることになった。ところが待てども待てどもやってこない。かなりてこずっているらしい。
車内は満員だったが混乱はなく、ようやく5時間半かけて十日町(入場券B、出札窓口が閉鎖されていて翌6日朝に購入)に着いた。今日の運転はこれだけ。明日の朝、越後川口行きを走らせた後はしばらく運休、と只見線と同じようなことを言っている。駅前旅館に行ったらなんと満室。それでも親切な宿のご主人は、アルミ製のカメラバッグや大きな三脚を見てどこかの取材クルーと思われたらしく、予備の部屋を片付けて泊めてくれた。
その後2月中旬になって飯山線が動きだしたとの情報で、今度は長野方面から入ることにした。E君は都合が合わず一人旅となった。
長野の先、豊野まで夜行で行き、C56が牽く十日町行き215列車に乗った。ロケハンしながら行くと、上境(入場券C)の手前右手に吊り橋を発見。雪中を何とかたどり着き、C56が牽く長野行214列車を撮ったのが(写真2)。その後ディーゼルカーでひと駅、上桑名川に行き桑名川方向へかなり歩いて客車と郵便荷物合造客車の2両と貨車数両を牽くC56131の216列車を捉えることができた(写真3)。この2か月後、4月20日のダイヤ改正で、飯山線の旅客列車は飯山⇒長野の片道1本を除きすべてディーゼルカーに置き換えられた。