信越本線の難所碓氷峠の鉄路は横川軽井沢間11.2kmの標高差553mという急勾配(最大66.7‰)に対応するため、アプト式(歯軌条式のひとつ)により1893年3月に開業した。以来70年余を経て通常の粘着運転方式による新線の完成により、1963年9月30日を以ってアプトの歴史が終わることになった。最後の頃はED42型電気機関車(①ヘッドマークは9/29の特急白鳥で使われた)が軽井沢方に1両、横川方に3両(②③連結風景、④碓氷橋を渡る特急白鳥)ついて、峠のシェルパとして列車を支えていた。
私は9月29日深夜、その日行われた高校の体育祭を終えるとすぐに上野駅23時10分発の準急「あさま」で峠へと向かった。「あさま」は定時に横川駅に滑り込んだが、そこで私は思ってもみなかった事実を知った。つまり、アプトのお別れ式などは既に、29日の昼間に終わっていて、この「あさま」の次の611列車がアプト最後の列車である、とのことだった。ダイヤ改正は10月1日。当然アプトの最後は30日と私は思っていた。しかし、当時の国鉄は1日だけアプト時代のダイヤで碓氷新線に列車を走らせ、翌日のダイヤ改正(スピードアップ)に備えるという慎重を期したのだ。
私はそのまま「あさま」で熊の平へ行くことにした。そうしなければ、あの山間の小駅で軽井沢に向けて登っていくED42のテールライトを見送り、最後の611列車に乗ることはできない。熊の平では夜を徹して新線への切り替え工事が進められていた。
列車待ちの間、信号扱い所で係の方と、その年の夏、下り急行601列車「白山」や上り貨物列車の本務機(一番横川寄り)ED4224に添乗させていただいたことなどを話すうち、熊ノ平駅長が機関車に乗れるよう頼んでくださることになった。そして611列車、上野発信越・北陸本線経由米原行き普通列車(今では考えられないような長距離鈍行)が入ってきた。本務機(ED4216)は国鉄の関係者でいっぱいだったが、第1補機ED4215に添乗できることになった。機関士は駅長と同姓の佐藤さん。高崎第2機関区からの応援だったが元は横川機関区でED42と苦楽をともにしたベテラン(後に横川機関区長)だ。隣の線路にさっき「あさま」を軽井沢へ運んだ4両のED42が下ってきた。
午前4時22分。あたりの喧騒が一瞬やんで、静まり返った熊ノ平にピィーッ・ポィーッ・ピョーッ・・・ピィイーッと、4色の汽笛がこだまして、最後のアプトはいつものように登り始めた。暗闇の中、トンネルの外か中かは機関車のモーターのうなりで分かった。トンネル内の反響音はものすごかった。静かになってほっと一息つくまもなく、次のトンネルへと入った。佐藤機関士は、本務機の汽笛合図に呼応しながら、アプトの四方山話を聞かせてくれた。まだ暗い山中に小鳥のさえずりを聞いたとき、佐藤機関士の穏やかな顔と目が合った。そうこうするうち、ラックレールと機関車の歯車の噛み合う足下の振動が消えて音も静かになった。最後の第26号トンネルを抜けたのだ。矢ケ崎信号所を通過し、静かに軽井沢へ入った。
代行バスで機関士たちと横川へ戻り、朝の下り1番列車、すなわち新線1番列車を待った。新線には既に7月15日から1日3往復の80系電車が準急として走っていたが、EF62牽引の普通列車はこれが最初(⑤熊の平発車時)だ。再び着いた軽井沢の構内では、旧線の電源(600V)が切られた後、先程の611列車をひいたED42の入れ替えに働いたと思われるC125が蒸気を上げED42とつながっていた(⑥)。4両のED42はみなロッドをはずされて、自らの体内にそれを積み込まれている(⑦)ところだった。このまま廃車回送を待つのだろう。下り特急「白鳥」が来る頃には霧雨が辺りを包んでいた。
あれから半世紀余り。その後もしばしば碓氷峠の客となり、特急に格上げされた「あさま」「白山」そしてEF63にお世話になったが、新幹線ができ、その新線もすでにない。あの線路端の野猿たちは今どうしているのだろうか。新幹線では何も見ることができない。